「お兄ちゃんや鈴さんを酷く言うのはやめて。そんなのあなたの勝手な持論でしょうっ」
激しく抗議して、そうして魁流に近づく。
「あんな話、信じる事ないよ。誰が何と言おうと、私は信じてる。お兄ちゃんはすごい人だよ。誰にでも優しくって、頼りがいがあって、頭良くって、私、本当にお兄ちゃんを尊敬してるの。だから」
ツバサの右手が魁流の肩に触れた。
「だから私、どうしてもお兄ちゃんに会いたかったの」
不思議だ。
ツバサの声を聞きながら、魁流はぼんやりと思った。
霞流慎二に小心者だの狡猾だのと罵倒された時には腹が立っていたはずなのに、鈴を小賢しいと罵られた時には怒りで全身が震えていたはずなのに、ツバサからそんな事はないと擁護された途端、スッと感情が冷めていった。霞流の持論を冷静に分析ができるほどの余裕すらうまれた。
俺は、天邪鬼なのか?
自嘲しながら、愛しい人の面影を脳裏に浮かべる。
鈴は、俺の事をどう想っていたのだろう?
「世の中がみんな私たちのようになればいいのに」
当たり前のように口にする彼女の顔は自信に満ちていて、荒んだ世の中を嘆いているはずなのにどこか活き活きとしていて、楽しそうだった。
正しいのは自分。間違っているのは他人。
なんて優しい言葉。
「誰がなんと言おうと、私はお兄ちゃんを尊敬してる」
寄り添うようにしてその耳に告げる。それを聞きながら、やがて魁流の全身が小刻みに震えだした。
「くくくくくっ」
引き攣るような声。それは、決して大きな音ではなかったけれども、静まる周囲には十分な大きさだった。
「お兄ちゃん?」
怪訝そうに顔を覗き込もうとするツバサに、魁流は顔を向けた。
「わかっていたんだ」
それは、少し虚ろで、どことなく怠惰。
「お前の方がずっと純粋だって事、俺にはわかっていた」
だが、それを認める勇気が、魁流には無かった。
両親の、特に母からの期待を一心に受け、魁流はただひたすらにそれに応えようとした。その行動に疑問を持った事は無かった。期待される事には誇りを感じる事もあった。だが、心のどこかには冷めた感情が存在していたのも事実だった。
どうせ俺なんて、親を喜ばせるだけの存在なんだ。
そんな自分を醜いと感じるようになったのは、たぶん、ツバサの敵意を鋭く感じるようになってからだろう。
どうしてだか、妹の方が正しいと思えてしまう。
自分は間違った事はしていない。自分の方が頭もいいし、親にも期待されている。相手は年下だ。しかも幼稚な小娘だ。
そう言い聞かせながら、妹の視線を受けるたびに、己の小心さを実感させられた。
ツバサの方が、いつかは自分よりも立派な人間になってしまうのではないのか?
そんな事はないはずだ。幼稚な嫉妬だ。相手にする必要は無い。
そんな考えが、魁流に冷静を保たせた。だからツバサにも優しく接する事ができた。
俺は大人だ。ツバサとは違う。
妹の激情を受け止めるたび、優越も感じた。
だがそれは、単なる優越感だった。
鈴を失い、家を飛び出すと、そんな視線を投げ掛けられる事も無くなった。
清々した。当然そう感じた。なのに、心のどこかが引っかかった。
寂しい?
馬鹿な。そんな事、あるワケがない。
だが、幼稚な妹を大きな包容力で受け止めるというデキた兄を演じる事によって得られた優越感は、無くなった。後には、天国なのか極楽なのか、はたまた別のどこかなのか、在るのか無いのかもわからないような楽園を望むだけの生活が残った。
「俺は、逃げていた。争って自分が傷つく事からも、負けるかもれないという恐怖からも、そして、お前が俺よりも真っ直ぐな人間だという事実を、認める事からも」
膝から手を離し、勢い良く背を伸ばす。
「俺は怖かった。いつかお前に負かされるのではないかという恐怖、周囲に言い負かされ、敗者になるのではないかという恐怖、そして、自分が悪となり、周囲が善となってしまうのではないかという恐怖」
夜が流れる。穏やかな海面。
「俺は、常に善でありたかった。正でありたく、自分が間違っている世界など、考えたくもなかった。認めたくもなかった。俺は、だらしのない男だ。情けなくて、小さい」
夜空を仰ぐ。
「本当に、お前から憧れているだなんて言ってもらえるような価値なんて、俺には無いんだよ」
「そんな事ない」
ツバサは呟くように反論する。
「そんな事ないよ。だってお兄ちゃんは、いっつも私の幼稚な嫉妬にも意地汚い嫌味にも、いっつも笑ってくれていた」
「それは単なる演技だよ」
「違うよ」
「違わない」
「違うよ。お兄ちゃんが狡いだなんて、そんなのは嘘だ。小心者だなんて、そんな事はない。だってお兄ちゃんは、唐草ハウスで頑張ってたじゃない」
魁流の視線が、素早く動いた。何かを思い出すかのように。
「お兄ちゃん、唐草ハウスで、困ってる子たちと一緒に、頑張ってたじゃない」
「それは」
視線が泳ぐ。
「それは、ただ自分を善く見せようとしていただけの事だ。ボランティアをしていれば体裁が保てると思っていたお母さんと同じだ」
「嘘だ。だったら、どうして私も入れてくれたの?」
魁流は、答えられない。
「自分の体裁だけを考えていたんなら、だったら私が施設にまで付いていった時、わざわざ中にまで入れるようなコトはしなかったハズでしょう?」
「俺がいかにデキた人間かを、お前に見せたかっただけだ」
「だったら、一度見せるだけで十分じゃない。私も施設で一緒にボランティアができるようにしてくれたでしょ? 馴染みやすいようにしてくれた。だから私、すんなり施設に入る事が出来た」
「それは、ただ」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ」
ツバサは魁流の袖を摘む。
「お兄ちゃんは、お兄ちゃんだ。狡くもないし、卑怯でもない」
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